アメリカ生活、12年。
皿洗いからミシュラン職人へ駆け抜けた僕の、
嘘のような本当の話。
帰国を目前に控えた今、
その全軌跡を六話に分けて公開します。
【目次】
- 第1話:【幕開け】「行きたくない」から始まった。26歳、絶望の渡米。(2008-2014)
- 第2話:【屈辱の皿洗い】言葉はスペイン語、仕事は股間を触られること?(2014-2016)
- 第3話:【転落と覚醒】アメリカン寿司の洗礼と、保健所が来た金曜日。(2016-2018)
- 第4話:【ミシュランとコロナ】天国から地獄、そしてゴーストキッチンへ。(2019-2021)
- 第5話:【マイアミの奇跡】血だらけの年越しと、二度目の星。(2021-2024)
- 最終回:【決意】運命のバトン。新宿「みやこんじょ」二代目へ。(2024-2026)

【第1話】「行きたくない」僕が、26歳でアメリカ永住権を手にするまで。
「龍も(永住権)やる?」
2008年、大学2年生の僕に向けられた父の言葉は、
まるで「明日ラーメン食べに行く?」くらいの軽いトーンでした。
すでに兄がアメリカへ渡るプロセスを進めていたこともあり、
自営業の父を見て育った僕は、
「これに乗れば、いわゆる『就活』というレールから逃げられるかも」という、
正直かなり不純な動機で「うん」と返事をしたのを覚えています。
当時の僕にとって、
寿司職人という仕事は「体育会系の厳しい世界」。
何年も下積みをし、目で盗み、ようやく握らせてもらえる……
そんな古いイメージしかありませんでした。
海外への憧れもゼロ。
正直、日本が大好きで、ずっとここに留まりたかった。
でも、永住権が降りるのは約5年後。
僕のアメリカ移住へのカウントダウンが始まったのです。
日本を愛するための「現実逃避」の旅
申請からの5年間、
僕は「寿司の技術をどうにか覚えよう」ということよりも
「どうにかして海外を好きになろう」
「日本のことをもっと知ろう」
と必死でした。
バックパッカーでインドやタイを巡り、
カナダからアメリカ西海岸を縦断。
自転車で九州を一周し、
沖縄で自給自足キャンプをし、
ヨーロッパを鉄道で放浪……。
しかし、旅をすればするほど、
僕の心に出た結論は皮肉なものでした。
「やっぱり、日本が一番好きだ。」
26歳。毎日友達と遊び呆けていた僕にとって、
アメリカ行きはもはや
「楽しみ」ではなく
「宣告」に近いものでした。
「行きたくない。でも、このまま日本にいても将来が見えない……」。
そんな葛藤を抱えたまま、
ついに「その時」が来てしまったのです。

2014年4月、英語ゼロ・緊張度100%の機内

2014年4月、
僕は成田空港のゲートをくぐりました。
これまでの優柔不断な自分を捨て、
アメリカでは仕事に全うしようという覚悟だけは決まっていました。
永住権のスポンサーになってくれた日本食レストランへの恩義、
そして父の顔に泥は塗れないという人としての意地。
でも、機内での僕はただただ震えていました。
英語力は、文字通りゼロ。
「ビザの関係で別室に連れて行かれたらどうしよう」
「何か聞かれても一言も答えられないぞ」
冷や汗をかきながら、手汗で湿ったパスポートを握りしめていました。
期待に満ちた「移住者」の顔ではなく、
これから戦地に放り出される兵士のような、
ガチガチの緊張感。
これが、僕の12年に及ぶアメリカ生活の、
あまりにも情けない幕開けでした。
待っていたのは「3年間の恩返し」

空港に迎えに来てくれたオーナーの第一声が、
僕の心にさらに火をつけます。
「3年後、お前は俺に『辞めないでくれ』って言ってもらえるくらいになるまで頑張れよ」
この言葉が、その後に待ち受ける
「屈辱の皿洗い時代」と
「スペイン語まみれの厨房」
を生き抜くための、唯一のガソリンになったのです。

(つづく:第2話「包丁を隠され、股間を触られ……ラテンの洗礼と皿洗いの3年間」)
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